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カテゴリー: ベルギー国営放送 | 2006年08月09日 ()

去年、ベルギー国営放送の取材に同行したのですが、その時の事に関連する記事が西日本新聞に載っていたので、引用します。あと、その記事に出てくる松谷さんの名前も漢字が間違っていたので、訂正して再アップです。






青春謳歌したかった 被爆者の思い、CDに

2000年の最高裁判決で原爆症と認定された長崎市の被爆者、松谷英子さん(64)の思いを歌に込めた音楽CD「ハイヒールの詩」が完成、発売されている。

 松谷さんは3歳の時、爆心地から約2・4キロの長崎市旭町で被爆。爆風で飛んできたかわらで頭に大けがをし、右半身まひになった。原爆症認定をめぐり1988年に提訴。認められるまで12年かかった。

 「赤いハイヒールを履いて青春を謳歌(おうか)したかった」との思いを、同市在住のシャンソン歌手寺井一通さん(57)が歌にした。松谷さんも所属するコーラスグループ「被爆者歌う会『ひまわり』」が核廃絶を訴える歌も含め、全8曲と松谷さんの語りなどを収録した。




以下、松谷さんの漢字を修正後、内容そのまま採録。


60年前の今日、広島に原子爆弾が投下された。戦後60周年の節目の年にベルギー国営放送から通訳の話が舞い込んできた。ワールドカップの時と同じように神戸のNさんからの話だ。

折角の機会なので簡単に今回の取材を振り返ってみたいと思う。


取材日程は7月17日(日)から24日(日)までの8日間。その前段階で色々と準備が必要だったが、インターネットがあるのでコミュニケーションはとてもスムーズにとれたと思う。Skypeを使ってベルギーに電話をすると日本の市内通話料金よりも安い。これは有り難かった。記者のミッシェルに読んでもらいたい資料も簡単に送れるし、ウェブ上の記事はURLを送るだけで済む。なので短い準備期間なりに濃い内容が議論できる。

17日(日)
広島空港で時に待ち合わせだったので、妻を送ってからそのまま高速をひた走る。途中、アリタリア航空から電話が入り、撮影機材の三脚が成田に不着とのこと。

「うーん、困った」

早めに広島空港に着いたので、NHK広島放送局に電話を入れ、三脚の手配。後から振り返るとこれがなかなかの選択だった。

二人が到着した。初日は旅の疲れも考慮してか、取材の予定は入れていない。しかし、三脚を貸してもらえるよう手配した旨を告げ、記者のミッシェルと、カメラマンのアントニオとともに広島市内へ向かった。

NHKでは快く迎え入れて頂き、原爆に関係する行事を聞いたり、核武装論議に関する東京での取材で専門家を紹介してもらえるようお願いしたり出来て、収穫は多かった。現地の取材陣からしか聞けそうにない、良い撮影スポットも教えてもらえた。NHKを後にし、原爆ドームと川、そして夕日がいい具合に見られる場所へと向かう。ちょうど、間もなくそのスポットに着くというところで歌を歌う集団に出会う。どうやら反戦の集会のようだ。ミッシェルの「よし!」という一声で、初日の予定外の取材が始まった。

原爆ドーム

歌っている様子や、取材者の方へのインタビューを一通り終え、次に被爆者への取材をした。久保さんという呉にお住まいの被爆者の方は被爆者の方の手記を集めた「木の葉のように焼かれて」をずっと編集してこられたのだと言う。即座に明日の取材依頼をし、呉のご自宅で翌朝の10時に待ち合わせとなった。とても早い展開だ。

NHKで聞いたベストスポットの旅館屋上に上るが、既に日が陰ってしまっていた。
次の機会があればということで旅館を後にし、広島プリンスホテルへと向かう。チェックインを終え、近くの回転寿し屋で食事。結構、喜んで食べていたが、食べ始めるまでに1時間くらい待たされたのが、ちょっと失敗・・・。

18日(月)
瀬戸内の海の大パノラマを見ながらの朝食を済ませ、早速呉へと向かう。呉は坂の街で道も奥へと進むほど細くなって行く。カーナビに連れられ、無事到着。

呉取材

話を色々聞き、カメラをまわしながらのインタビュー。当然、私が質問する。区切りの良いところで話をフランス語で簡単にまとめ、うまく伝えられない部分は英語で要約。
久保さんの旦那さんは紙芝居で原爆のことを伝えている語り部の一人だ。原爆後の「ぶらぶら病」に関する興味深い話も聞けた。それは、有名な映画「仁義無き戦い」はぶらぶら病と無縁ではないという話だ。ぶらぶら病は病気とはなかなか認定されないある種の症状を指す。やる気がでず、仕事もせず「ぶらぶら」してしまうのだ。見た目は正常であっても、生きる気力がわかない。かといって、食べて行かないわけにはいかない。そういう人がやくざの抗争において、お金を握らされ、鉄砲玉として使われた。そんな経緯があの映画の背景にはあるそうだ。

久保さん宅での取材を終え、次は広島共立病院での取材。有料道路を走りながら毎回料金所に会うので二人は呆れていた。確かに高いな・・・。

共立病院では自分自身の無知を思い知らされた。日本では52年のサンフランシスコ講和条約施行までプレスコードと言われる報道管制がしかれていたということだ。7年間に渡り、原爆の惨状に関する報道やアメリカにとってイメージダウンに繋がる報道は一切の規制対象になった。だから原子爆弾なんていう言葉が広まるのはずっと後になってからのことだったようだ。もちろん今でこそ、そう言った言葉は社会の授業で習うし、理科の授業でも出て来るが、当時の最先端の技術が一般に知られている訳はない。当時は新型の爆弾と言うことだけが人口に膾炙した。

その病院の初代病院長丸屋博氏(御庄博実)は原爆投下当時、医学生であったということだが、後年原爆の惨状を詩に詠んだら、それで逮捕されてしまったと言う。当時の良心にとっての状況は想像して余ある。

丸屋氏にはサンフランシスコ講和条約後、つまりプレスコード解除後の初めての原爆報道を見せてもらった。それはアサヒグラフの52年8月号。目を覆うばかりの写真が載っていた。しかし、7年と言う月日の後に見せられたら、原爆の惨状を知らないものはどう思うのだろうか。「もう、日本は復興しつつあるのに・・・。」「今更蒸し返されても・・・」どうだったのだろうか。プレスコードは非常に効力があっただろうことは現在の日本を一瞥すれば分る気がする。

共立病院では丸屋氏の他被爆者の方が5名くらい集まって下さっていて、色々な話を伺った。5回妊娠して、一回以外はすべて死産か流産。そういう人が2、3人いた。当時の助産婦の証言も教えて頂いた。

共立病院を後にし、この日の宿、宮島の旅館「四季の宿わたなべ」に向かった。
どうしても旅館に泊まりたいという要望が来日前からあったので色々と探していたのだ。

厳島神社

この宿はとても清潔感のある作りでモダンクラシックという表現がピッタリ。厳島神社にも近く、ロケーションとしては申し分ない。食事もとてもおいしく、二人は満喫していた。食後は厳島神社を散歩し、島の風情を堪能した。厳島神社の上のお寺ではブームの宮沢氏のコンサートがあっているようだった。お堂の中でのコンサートも悪くない。

19日(火)

広島グランヴィアホテルにアリタリア航空から届いているはずの三脚を取りに行き、チェックインも済ます。その後NHKに三脚を返しに行き、広島平和記念公園と資料館へ出向く。そこで一通り見学し、次の取材まで時間を使って広島三越の儀右エ門へ二人は行った。私は車の中で二人を待っていた。

広島の平和資料館で被爆者の方にインタビュー。その方は現在語り部をしていて、その晩も東京の高校生にお話をするのだと言う。早速、その高校が宿泊している旅館に電話し、引率の先生に取材依頼をするも、断られてしまった。「個人情報保護・・」とかなんとか言っていたけど、意味不明。判断できる人間がいないと言うのが本当のところだったようだ。後ろからしか写さない等と言っても取り付く島はなかった。

その晩の宿は広島駅のそばのホテル。少し早めに戻って翻訳作業。と思いきや数分も経っていないのにミッシェルは寝息を立てている。相当疲れがたまっているのだろう。時差の関係があるにもかかわらず、初日から取材だったし。そりゃそうだ。

20日(水)

この日、車で広島から長崎まで移動。朝早く起き、7時過ぎにはホテルを出た。高速をひた走り、まずは玄海原子力発電所でレポート。

玄海原子力発電所


少し予定より遅れて長崎の原水協へ到着。原爆症の認定を巡って12年間、法廷で戦った松谷さんの取材をする。海外のメディアが取材に来ているとあって、地元新聞の長崎新聞から取材を受ける側にもなった。
その時の様子が少しだけ記事で触れられています。http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2005/kikaku/13/06.html

被爆者の認定は比較的容易なようだが、原爆症の認定基準は非常に厳しいそうだ。しかし、原爆の後遺症で苦しむ人にとっては、働き口も満足にない等、年金がもらえるかどうかも分らない人も多い。またしても知らない現実を目の当たりにして自らの無知を知ることとなった。

松谷さんや彼女を支援する弁護士の方に取材とインタビューを終え、松谷さんの生家の跡地へ。そこは現在車が走る高架下にある。そこで絵をとり、松屋さんのご自宅で取材。右半身が不自由な彼女が爪を切る様子等を見せて下さった。明日も取材させて頂くことになり、そこを後にした。

ホテルに到着後、グラバー邸に行く。そこで明日のロケーション場所をミッシェルとアントニオは考えているようだった。長崎にいる知り合いのKさんも来て下さり、色々な歴史や長崎の現在の話を聞くことも出来た。Kさんに爆心地を案内してもらい、焼き鳥屋で食事。とても美味しい料理が出てきて二人ともご満悦。

21日(木)

10時に松谷さん宅に迎えにあがり、家を出る様子とレポートを重ねる。そしてグラバー邸で松谷さんにインタビューを行い、松谷さんがかつて働き、現在はボランティアとして仕事を手伝っている長崎原水協へ送り届けた。

美しい港町を後にして、東京へ向かうべく、福岡に向かった。福岡に来たからには私が勤めている会社がやっているお店、儀右エ門・福岡店に行かない手はない。二人は興味深そうに絣による様々なアイテムを手にし、奥さんや子供さんたちにお土産としていくつも買ってくれた。

車を大名の岩田屋そばの駐車場に置き、奥さんに鍵を渡す。僕が渡しても面白くないので、アントニオとミッシェルに鍵を預け、奥さんに手渡してもらった。

福岡空港では無線LAN環境があるので僕のノートパソコンを利用し、アントニオの家に電話をしてみた。少し話しづらそうだったけど、こんなに簡単にベルギーに電話できるのかと驚いていた、しかも3分6円ちょい。すごいね。

東京に到着後、タクシーでホテルに向かう。タクシーの若い運転手さんは信じられないくらい運転がうまく、これ以上ないのではと言うルートで早く、そして安くホテルに私たちを届けてくれた。そのホテルはイスラエル大使館の前で厳重な警備も行われていた。

大正初期の雰囲気を再現したお店で食事をし、今日の仕事は終わり。

22日(金)

朝から靖国神社に向かい、いくつか絵を撮り、広報部へと向かう。そこで靖国神社の役割や、靖国を巡る現状を色々インタビューした。なかなか面白い話を聞くことが出来た。他国の理解を得る、努力と国としての方針を固める必要性等にも話が及んだ。

靖国神社

二人が靖国の色々な場所でレポートをしている間を使って、翌日の取材に応じてくれる人を捜した。「新しい教科書をつくる会」の西尾氏らは日程的に無理だった。翌日の申し込みなのだからなかなか応じてもらえないのは承知の上だ。西部邁氏になんとかアポが取れ、一段落。

靖国を後にして、私たちは原水禁の事務所に向かった。そこで活動や原水禁の現状に対する考え等を聞き、インタビュー。明日、反原水爆の行進があるとのことを聞き、詳細な時間と場所をもらった。

原水禁

原水禁の取材の後、国会議事堂経由で浅草に向かい、雷門の周辺を散策。

雷門アントニオ@浅草


そして以前からアポを取っていた浅草のクジラ料理屋に行った。そこで一通りクジラを食し、ビールを飲む。店主が帰ってきたところで取材開始。そこは浅草でも非常に有名でビートたけしさんや色々な芸能人も利用しているお店だ。

クジラ


「捕鯨船」といって非常に雰囲気のあるお店だ。店主も外で飲んできて気分上々。インタビューにも饒舌に答えてくれた。お店に来ていたお客さんたちも気分よくインタビューに応じて下さった。感謝感謝。お客さんに次飲みに行くぞと、誘われるのを丁重に断りつつ、地下鉄で帰路に着く。

地下鉄

23日(土)

早朝から築地市場へ取材に向かった。現在はプロしか入れないはずの領域にも海外からの観光客等も結構出入りしていた。意外に敷居は低いのか?クジラの肉を扱っている商店やマグロの解体等をカメラに収めていた。

築地市場

ところでミッシェルはかなり風変わりなジャーナリストだ。僕だけが変だと思っていた訳ではなく、やはり同じベルギー人のアントニオにとっても変な人らしい。一緒に歩いていると消えてしまっていたり、ワイシャツを出しっ放しでレポートなどをしているそんな男だ。築地市場からの帰りにも桃を買って、新宿駅の東口でボタボタ汁を垂らしながら皮が付いたままむしゃむしゃしていた。そんな男だ。

桃

この日、横田基地周辺を行進する原水禁の反原水爆パレードを取材に。皆さん暑い中、声を出しつつ行進している。北海道からずっと毎日歩いている方もいらっしゃった。全国に何チームかに分かれて行進を行い、反原水爆のキャンペーンを張っているのだ。広島での平和記念式典にあわせて行進が続くそうだ。

行進

次の予定があるため、お礼の挨拶をし、すぐに電車に乗り込んだ。目指すは早稲田。西部邁氏のインタビューだ。ゴーマニズム宣言でも有名な西部氏は急な取材申し込みにもかかわらず、快く受けて下さった。ありがたい。

色々な話をした後、早速カメラをまわし始め、英語による対話が始まった。そこでは東京裁判やニュルンベルグ裁判の話等多岐に亘った。

そのインタビューの最中である。

グラグラ、グラグラ、ユッサユッサ、と揺れ始めた。地震だ。西部氏の上においてあった額が落ちる等かなりの揺れだった。ベルギーのクルー二人に取っては初めての地震だったようだ。何もなかったかのようにインタビューは続行されるも、途中で何度か余震もあった。福岡での地震も結構酷かったが、揺れの長さ等は今回の東京の方が長かった気がする。取材後お礼を言い、部屋を後にするもエレベーターはストップ。カメラを持ちながら階段を下りた。

西部氏は絣のネクタイを締めとてもお洒落な紳士だった。氏はこのインタビューの後、どこかで講演予定らしかった。

西部邁氏

地下鉄はすべてストップ。タクシーもなかなか捕まらない。たまたま昼寝をしていた運転手さんを起こし、ホテルまで送ってもらった。

この日が日本最後の夜ということもあり、日本の昔ながらの古い街角に行きたいというリクエスト。しかし、地下鉄は動かず、タクシーも捕まらなかった。という訳で、近くの小料理屋に行った。たったの一週間だけではあったけど、とても密度の濃い時間をともにさせて頂いて感謝。

神田にあるベルギービールのお店に取材に行こうと誘ったが、時間がなく断念。
ワールドカップのときベルギーチームの熊本キャンプで毎日昼から飲んでいたのが
懐かしい・・・。日本でのベルギービールのブームと言うか浸透具合は面白い
ネタになると思ったのだけど・・・。

24日(日)

最終日の朝、朝食のときにデジタルステージのPhotocinemaで作った7本の映像http://homepage.mac.com/tomokojo/RTBF1/index.htmlと、今回の取材旅行を撮った写真を焼いたCD-ROMを渡した。とても喜んでくれていた。こんなことは今までなかった、ということだ。そう言われるとまんざらでもないね。

3人での唯一の写真


二人をタクシーに乗せ、私は羽田空港へと急いだ。
[2006.08.09(Wed) 13:28] ベルギー国営放送Trackback(0) | Comments(0)
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プロフィール

高田耕造

Author:高田耕造

広島生まれの福岡育ち。高校は県立福岡高校。エスカレーター式に福高研修学園に進み浪人生活。その後、震災の年に神戸大学に入学。馬術部に入るも、馬の後ろ蹴りを受け、自分の鈍くささに嫌気がさすとともに馬に申し訳なく、退部する。部活をやめて、内なるエネルギーを学業に注ぐと思いきや、突然実家の福岡までチャリンコでGOー!3日間で福岡に到着。初日に5キロ以上体重が落ちたことに驚愕する。
体力もあり、爽やか青年のかっこいい旅物語のようにも想像されるが(されない?!)そうは問屋が卸さない。ゴール間近の3号線で「ビデオ・ランジェリー葉山」に気を取られ、その瞬間、ガードレールに激突。血だらけになりながら外れたチェーンを修理し、最後の帰路につく。
大学では神戸松蔭女子学院大学でフランス語をマダムたちと学んだ後、ボルドーへぶどう摘みに。このブログはその時の思い出から始まる。

在学中に結婚。はれてヒモとなる。奥さんに手作り弁当を手渡し、「いってらっしゃいまし」の日々。先日、ベリーズに住む友人とチャットをしていて「僕は妻と地球にパラサイト」っていったら素敵な表現だと褒めてくれた!「妻にパラサイト」が素敵?!
んなワケねーか・・・。サッカーのワールドカップ期間中、ベルギー国営放送のクルーたちとベルギーチームとともに日本を巡る。なんちゃってフランス語も時には役に立つ。先日の戦後60年に関するRTBFの取材は僕にとってもかなり勉強になった。
しかーし、リストラの波はヒモにもやってきた。ヒモ解雇。大学院を中退し、2004年から福岡で久留米絣の仕事に従事。
現在はまた神戸に戻ってきました!

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